初代会長 深谷源次郎「けっこう源さん」の信仰
「けっこう源さん」と呼び慕われた天理教河原町大教会初代会長・深谷源次郎は、天保14年(1843年)2月17日、京都市東山区古川町三条下ル進之町に、鍛冶職を営む父・源兵衛、母・ヂウの二男として出生しました。
長じて父の跡を継ぎ、三条通河原町東入る大黒町に、鍛冶「丹源」の店舗を構えると、「すさ切りなた打ちの名人」と、遠く名古屋までその名が聞こえる腕前で、「正直鍛冶源」と呼ばれるほどの篤い信用を得ていました。
生来、明るく朗らかな人柄で、信仰心が篤く、親孝心については、「13の時から親に飯を炊かせたことはない」と述懐するほどで、一日のうち、昼食までの稼ぎを生計にあて、それ以後の仕事からあがるものは、すべて両親を喜ばすために使ったと言われています。
源次郎の入信は、明治14年9月のこと。
仕事仲間から誘われて、天理教の話を聞いた源次郎は、中でも、「火と水とが一の神」という教えから、「どれほど良い質の地金がととのうても、どんな腕達者が命を打ち込んで鍛えても、火と水との加減が悪ければ品物にならない。なるほど、火と水とが一の神や」と、自身の体験から悟って感心しました。また、お歌に合わせて踊る信仰が、持ち前の明るい性格に強い刺激を与えたのです。
入信から半年余り経った明治15年春のこと。鍛冶仕事をしている最中、鉄槌を打ち下ろしたはずみに、真っ赤に焼けた鉄くずが右目に飛び込みました。「しまった、目を潰した」と思った瞬間、脳裏に閃いたのが、かねがね聞いていた「人間こしらえた神様」というお言葉。神様の前に座り、「人間造った神様なら、この潰れた目を元通り見えるようにして下さい。…もし御守護下さるならば、源次郎一生涯、火責め水責めにあいましても、一代神様のために働きます」と、激しい痛みに耐えながら、おつとめを勤めました。その途中、快い風が目に入るように感じると、激しい痛みがピタリと止まり、鉄くずがポロリと落ちました。「ああ、ありがたい。神様がお働き下さった」と、ここに「この神様のためなら身命を捧げても」との信仰信念が堅く定まったのです。
その後、周囲の反対や、官憲の干渉、様々な妨害、攻撃をもものともせず、むしろ、そうした人々にも、親神様の御守護のありがたさを説いて回り、やがて源次郎のもとに多くの人々が寄り慕うようになりました。
ある時のこと、仕事中、槌につまずいて倒れ、角床で額を強く打ち、大きなこぶができました。とっさに源次郎は、「ああ痛や、ありがたや、ありがたや」と大声で叫びました。周囲の者が、なぜこぶができてありがたいのですかと聴くと、「痛いということを感じさせてもらえるのがありがたいのや」と答えた、といいます。
また、晩年、左目が病気になり、徐々に視力が衰え、日が経つにつれて右目も衰えていき、やがては両目とも失明するに至りました。しかし、少しも悲しむことなく、「ついこの間まで、よう目が見えた。しかも、神様の御守護て偉いもんやないか。鍛冶していた時に怪我したほうが、最後までよう見えたんや」と、目が見えないことを嘆くのではなく、目が見えていた時のことを喜び、人々に親神様の有難い御守護を説きました。
このように、初代会長は、喜びにくい中、また、本来なら喜べないような中にあっても、見せられるすべてのことは親神様からの与えであり、そこにはたすけてやりたいとの温かい親心が込められている。「ありがたい」「けっこうや」と、喜びを数えて通り、その御恩にお応えするために、懸命に人だすけの道を歩みました。まさに、「けっこう源さん」たる所以であります。
そして、「ありがたい神さんやで。けっこうなお道やで」と、生涯、親神様の御守護のありがたさ、信仰の喜びを説き、多くの人を明るく勇ませ導きました。
「陽気に神が入り込む」-「けっこう源さん」と呼び慕われた深谷源次郎初代会長の信仰信念は、代を重ね、百数十年の時を経て、なおも人々に受け継がれ、今日の河原町大教会に息づいています。